アレの話など  

アレの話など

 

                                                                                                                      中島 悦子

 

切れすぎる鋏はいけない。取扱い説明書をよく読もう。なにしろ子どもの前髪を真っ直ぐ切ろうかと思う前にぱらりと散っていく。子どもが不意に動く。ぱらり。また何か言ってぐずると額に。おかげで柔らかい額や耳に数か所傷を付けてしまい、海の向こうの常世の部族の入れ墨のようになった。はらり。その先端がつぶらな瞳にいきそうになった、瞬間、

 

こんなかたちで死者を数えるのはよくない 毎日 毎日 

 

甥のアレは、大学のリモート授業とレポート漬けで鬱気味。どんな「度目誦口、払耳勒心」でも、毎日引きこもりで締め切りだらけでは、おかしくもなるだろう。訳すと(目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない)としても、途中で姪になっちゃうほど苦しいことなのさ。だから、未だにアレのことは、どう接していいのか戸惑うことがある。

 

私は、終活を早めたんです。この世の方舟が大々的に造られて出発しようっていうんですから。その方舟に乗れる確率が高齢者は1%って、これはそんなものなのか、結構いい確率なのか、分かりませんけれど、全世界対象ですからねぇ。それに、もう「つがい」じゃなきゃだめなんてもいわれないらしいし。世界の人と大きな大きな舟の中で友達になれれば、どこに流れ着いても楽しいのじゃありませんか。

 

所詮 人間はひとり なんです いつかは

 

そんなこんなで、アレのレポートは、正式に認められないとか、アレの性別も身分も分からないようじゃ在籍も危ういとか圧力がかかる。性別は、アレが自分で決めたらいいし、身分は、まちがいなく下級国民ですよって正直に説明しても、気に入らないみたい。誰って、関係者が。

 

辟邪絵って知ってますか。天刑星が、疫病に見立てた鬼を酢に付けて食べてくれる絵とか、鍾馗が、腰にまとわりついてくる鬼を捕まえようとしてる絵とかがあるんです。描かれた天刑星も鍾馗も、そりゃすごい形相です。鬼退治してるんですからね。鬼の方が、可愛い子どもみたいなものです。鬼はたくさんちょこちょこ動き回って、じっとしていない。ほっとけば常に悪さをしてしまう。でもひとりひとりが救いを求めてるように思えてしまうんです。

 

そんな子の 前髪こそ 切ってあげたいな  (「地獄草紙」「餓鬼草紙」)

 

私は、アレが可愛い。唯一の身内だから。アレが暗唱した国の歴史がもう始まらないとしても、へんな始まり方だったら、どうせ未来の科学は認めないし、それが強制的に独り歩きしたらもっとやじゃありませんか。だから、アレに責任とかは求めないでほしい。レポートは、別の人間がワードで打ったってわからないですよね! もう今の人間に筆跡とかないですよね!

 

つまり 愛→貞潔→死→名声→時→永遠 ですよ (ペトラルカ『凱旋』)

 

実は、私にとってあの機械的に電子振り込みされた十万円は聖徳太子様の紙幣だと思っているんです。私は、夏の季節労働の職を失ったのですが、雇用主は来年またあるからねってメールでそれだけですよ。でも、問題は今年の生活がどうかだったので、悲しかった。聖徳太子様の「未来記」では、そういう人達は滅びるって載ってたらしいのですが、いつのまにか東京が滅びるって解釈されてるらしく…。ネットでは、そんなことより、聖徳太子様そのものが、ホントにいたの?ってまでにエスカレートしてます。

 

取扱い説明書には どんな小さな工具も 死亡するかもって警告がある

 

なんでも遠回りすれば、どうにでもなってしまう。じゃ、いつまで聖徳太子様は、いたんですか。人間ひとりの問題じゃないですよね。そのせいで「先代旧事本紀大成経」は、江戸時代に発禁。ビニール袋に入れられて、もう誰も触れないでください、そのまま棺に入れますから。辛くても、心の中でお別れしてください、という。絶対忘れたくない。焼き尽くされても忘れるものですか。

 

死者の数にも波があるという それはあくまで人工プールの波 

 

あ、ホントの海を見たくなりました。アレを誘って行こうかな。海彦(アマビコ)にも会いたくなりました。猿に似た顔で、三本足の妖怪です。もちろん、古い日本語は喋れますよ。古くても通じるところは通じます。思いっきり、愚痴を言って、海に石でも投げて、浜辺を走って、忘れたいことばっかりだあ、なんて。旅行って、そういう天然のものですよね。自然発生が旅なんです。海彦は、浜に流れ着いた大木の根っこ。

 

海彦に言われました あきらめちゃだめ だって (「越前国主記」)

 

波は、光の当たり方によって、ものすごく濃い群青になるんです。もうこれに襲われたら、魂まで無くなる。そんな深い、深い、濃紺なんです。

たとえ、狂ったように荒れていても怖くない。むしろエクスタシー。視界の全部が光りうねる群青の生き物に覆われるんです。どんな神秘の世界があるのか、顔に入れ墨を入れた部族が新しい島を探しに木くずのような舟で漕ぎ出しちゃったのも、無我の境地だったはず。

 

方舟の話は、デマでしたよ。当たり前ですよね。私は、何かにすがりたかったのでしょうか。誰も助けてくれる人はいないのに。混乱の中、贋予言者の薬草が配られて、家一軒分の値段でも飛ぶように売れたという。どの時代にも買える人はいくらでもいます。チューリップ投機の話じゃないですよ、

 

遠い昔 あの春に咲く可愛い姿を誰かが鬼にしたんです

 

切れすぎる鋏はいけない。

  

 

                                                                     

           「ユリイカ」12月号(2020) 特集「偽書

                         稗田阿礼をイメージした箇所あり