第59回H氏賞・第7回北陸現代詩人賞、受賞第一作

追悼か抽象か
                             
                                        中 島 悦 子


私は、白い陶器の洗面台になった。水を貯めてコンタクトが流れないように見守ったり、時には、三葉虫アンモナイトを沈めてみたりした。そして、泣いた。涙のわけは、白いから、太古すぎるから、小さすぎるから。私は、定職がなく、何にでもなりかわるしかないから。

ぎりぎりの場合、《しかし》と《そして》とどちらを選ぶかということはかなり容易です。それがもう、《そして》と《それから》とどっちにするかということになると、だいぶむずかしくなってきます。《それから》と《次に》とではますますむずかしくなります。しかし、なんといっても、一番むずかしいことは、《そして》を入れるべきか入れるべきでないかを判断することです。(カミュ『ペスト』)より)                                             
なぐさめてくれる人はいない。つまり、接続詞とは抽象。さわると粉をふいている。机の下にでも隠しておいて、悲しい時も、しっかり息をしているようにとしか言わない。なぐさめてくれる人はいない。現在の経済は、液晶テレビの中からワニが生まれ、ワニの口から軽自動車が生まれ、軽自動車のボンネットから太った鶏が生まれ、鶏の腹から思いがけず人間の赤ん坊が年老いたまま生まれるという経過をたどる。

枯山水? 禅修行のはずが、何かを何かに見立てるという心は、かえって土に埋まってしまった。山水の溝には、模型列車があどけなく走る。

「知らない」と誰かが大きな声で言う。すると「知らない」「知らない」「知らない」という言葉は、際限もなく広がる。傷口は水にひたすと世界地図になる。刻々と勢いを増す。

元より此の世の中には、不思議と云ふことは、一つも無い筈で、萬一本當に不思議なことがあれば、夫れこそ實に不思議千萬な話ですが、併し残念ながら未だ其様な不思議な話は殆ど見付からない様です。(「少年世界」定期増刊 不思議世界より 明治三十九年五月)

「まだ大丈夫」と誰かが言う。その言葉も際限なく広がる。いい加減、生まれかわりたいですから、みんな。一律同じ味の薬のような杏仁豆腐を食べる。「俺はもう男じゃないから」と言う。金魚の模様のパジャマを着て眠る。たとえ死病が流行したとしても、自分だけ助かりたいというのは甘いと先生には言われるけれど、水だけ飲んでひきこもり、理論上一ヶ月は生きのびてみせるって思ってる。

溝で暮らせ。ある日心の声があがり、家財道具を全部小さくして溝に住んだ。公邸とか、大使館とか、御所とか、いろいろと言い方はあるけれど、どれも言葉の問題にすぎない。特に、これまでの家の駐車スペースのコンクリートは全部はがして、畑にして、どんな高熱が出ても溝で暮らす。

あなたがたがこれを避けうるようになどすることはできないのであります。そして、苦痛の血みどろな麦打ち場で打ちのめされ、あなたがたは藁屑とともに投げ捨てられるのであります。(カミュ『ペスト』より)

子どもが瀕死の子猫を拾ってきた。ダンボールにいれ、力なく泣く様子に末期の水をやったが、その日のうちに死んだ。三日後はこわれたスケートボード。それは、捨ててあったのではなくて、おいてあっただけかもしれないでしょう。すぐ、かえしてらっしゃい。その一週間後は、死んだカナリア

「誠実とか愛とかは、あなたは無理でしょう?」とまた先生に説教された。「愚鈍者」「愚鈍者」「愚鈍者」「愚鈍者」。弁当に椎茸が二個入っていて、うれしかった。

面とむかってののしられるのには慣れていない。プライドだけはあるから何もないときは、すましているくせに。でも、電車の中でマスクをしろとか、唾がかかったろうとか、それがどうした、はあああ? もういっぺん言ってみい。そんな空気が汚いか。もっと吸え。トラブルは激増している。一メートル間隔はあけられないと車掌は嘆く。(模型列車の中で)

「血清ならあるのに」「虚しいだけ」

銃声がまたテレビから聞こえる。時々本物になる。
椎茸とか叫ぶ声もまたテレビから聞こえる。時々本物になる。

気をゆるめてはいけない。次もそしてもない。何もない分、後悔しないで、幸せに暮らせ。
                 




                                       初出「現代詩手帖」2009.4