中島悦子・H氏賞受賞スピーチ原稿  

受賞スピーチ  
       2009.6.28 於ホテルメトロポリタンエドモント          
                              中 島 悦 子

 このたびは、第五十九回H氏賞をいただきまして、大変ありがとうございました。
大岡先生から、賞状をいただけたこと、本当に光栄に思います。
井坂先生からは、身にあまるお言葉をいただきありがとうございました。
 選んでいただきました選考委員の皆様ありがとうございました。おひとりおひとりの選考のお言葉が、身に染みて感じられました。高校生のころから、はずかしながら、三十年近く書いている計算になってしまいますが、このまま無名でも、全く後悔はしないと思っていました。 文学の世界に憧れ、文学が好きで、実際に書いてみたいと思ったのが、現代詩だったわけですが、その世界に魅せられて夢中で長い時間を過ごしてきました。
 子どものころ、近所に家庭用の焼却炉があり、好奇心から触って大やけどをしたことがあります。あまりに熱いと熱さを感じなかったのです。すぐに手をひっこめることができませんでした。詩を書くことは、多分、それくらい危険なことだったのですが、長い間、やけどをしていることにも気がつかずに、言葉の温度をたしかめつづけていたのではないかと思います。今、あらためてこのH氏賞というスタート地点に立ってみて、その熱さに思いをはせています。選考のお言葉は、これからの道のりを励ましていただいたと思っております。
 また、このH氏賞は、郷土でもあります福井県三国町出身の平澤貞次郎氏が終戦直後に私財を投じて設立された賞でもあり、私にとっては、ずっと憧れをもっていた特別の賞でした。
 このたびの受賞では、福井新聞をはじめとして、福井のメディアにそれぞれ取り上げていただきました。それは、平澤氏への熱い敬意であると思います。新川和江先生の文章を拝見いたしますと、平澤氏は、いつも一般席で受賞の様子を見守っていたそうです。今日も見守っていただいているのではないかと思います。
 拙著『マッチ売りの偽書』は、受賞の言葉でも書かせていただきましたが、難産の詩集でした。今日のような社会混迷の時代、ポストモダン以降の現代詩がどうあらねばならないのか、頭の隅でいつも悩んでいました。何を書いても空々しい。言葉の重みもなく、それが求められているとも思えない。でも、自分の殻だけに閉じこもっていたくない。結局は、自分の詩もいったんすべてゼロにしなければならないのではないかと思い悩みました。そして、その悩みのままをつらねていくことになりました。賛否両論にしっかり分かれる詩集になるだろうと覚悟をしておりました。それでも、読んでいただけた部分があったこと、いろいろなご批評をいただけたことを心から感謝しております。この場をお借りしまして、お礼申し上げます。
 作品の中の引用の部分については、大変苦労しました。詩の中へのぶつけ方については、その内容はもちろんのこと、リズム、流れ、呼吸といったものに注意を払うことになり、特に自分が試されているような辛さを味わいました。けれども、その厚みは、表現しなければならないと思いました。
 太宰治の引用については、特に生誕百年を意識したわけではありません。それ以前から惹かれていました。詩集の中の「空腹について」では、「津軽」を引用しました。最近になって、「小説「津軽」の像記念館」というものがあり、なんと、タケと太宰治銅像になっていることを知りました。少しショックでした。二人が会ったというグラウンドとはどんなものか、タケもどんな女性なのか、想像の中にとどめておきたいと思ったからです。でも、銅像もありなのかもしれないと思いました。また、「走れメロス」マラソンというものがあるらしいのです。五所川原から斜陽館前を通り、金木までを走るコースらしいのですが。こんな、一見喜劇にみえることが、銅像であれ、マラソンであれひとつの具体的な形として残ったことがおもしろいと思います。
 文学は不思議です。どこで何を支えるかわからないからです。太宰もここまで町おこしを支えるとは思っていなかったでしょうが。けれども、ここから、新たに太宰の作品を読む読者が生まれるでしょうし、文学の深さに気づく読者も多いと思います。そうして、少しずつ何かが受け継がれるのではないでしょうか。
 文学の本質は、したたかに人間の生活に切り結ぶところにあるかと思います。幸福や美に溢れ、慰めを与えるだけでなく、傷つけたり、恐怖を与えたり、いやな感じを与えたり、悲しませたり、多面的な部分をつきつけてきます。その深みが、言語の世界が一筋縄ではいかないことをはっきりと伝え、人生の陰影を教えてくれるのではないかと思います。
 どんな言葉が生き残っていくのでしょう。私は、自分の言葉を生き抜いていくことだけで精一杯です。でもそれぞれの走り方で走って行くしかしょうのないものなのかもしれません。走れメロスラソンのことを少し笑ってしまいましたが、きっと文学の具体的な現場は、毎日が目に見えないマラソン大会なのだと思います。皆が毎日言葉と格闘しているのです。そうして、その厚みが人間の言葉を表面的、平面的でなく、内部から支えていくのだと信じています。詩の役割はそこにあると思うようになりました。これからも、そのマラソンの中の走り手でありたいと思います。
 多くのよい先輩、友人のみなさんに恵まれて、ここまで書き続けてくることができました。そのひとつひとつの出会いに感謝しますとともに、これからもよろしくお願いしますと申し上げたいと思います。
最後になりましたが、現代詩人会の皆様にも大変お世話になりました。こころより感謝申し上げます。