中島悦子「私を見なくていいから」 Etsuko Nakashima

私を見なくていいから

中島 悦子

男を脇にかかえて走っていた。男は長身なのに、なぜかかえられたのか。たぶん、体重が二キロくらいだったのだろう。それでいい。男は、素直にかかえられていて声もださなかったし。私というもののカウントダウンがはじまっていて、男の気持ちにはかまっていられない。私を見なくていいから。

朝から「富良野の焼きたてメロンパン」を売るメルヘンチックな装飾の車と渋滞で隣り合わせになる。メロンパンだけがきわだって幸せそうだ。中で運転している男は、投げやりな表情で煙草を吸っている。俺は見なくていいから。あとに続く労働者のトラック、工事現場に向かうトラック。それも見なくていいから。

不幸な男は、愛してくださいとしか言わない。そして、次の日には死んでしまい、私がリセットすると、また生き返って、同じ言葉を繰り返す。もう、私達には文学的な物語はないから、こうして気に入らなければ、何度でも死んで、何度でも生き返っていいから。そして、私を見なくていいから。

助詞の「は」と「が」の違いを教えてあげましょうかって、誰にむかって口きいてるの。所詮私達は、永遠の素人。助詞の問題は、文法にはないのですよ。文法、なんて三つのときにもう、考えていませんでした。

韓流スターのK・J氏の日本語は、ほとんど完璧。文法のことは考えず、ちょっと影のある感じでいてくださいね。影ばかりでもいいでしょう。素顔は見せなくていいし、見る必要もないからと彼なら言ってくれそう。

人は、どういう妄想の中で生きているのだろう。口をきいたこともないキャラクターをまるで見てきたように好きになったり、嫌いになったりして、この世の憂さをはらしているのか。あなたは、今どんな感じ? 旅に出て、楽しいとか、スポーツジムに通っているとか、地味はつまんないとか、本当にリアルに感じてる? わたしとあなたの髪の毛に覆われた頭蓋骨の中の乾いたメロンパンみたいな脳は?

私を見なくていいから。

私も二千人を無視します。いや、五千人を無視します。それも本当の数ではない。無視しているものは、数ではなくて、粘土の厚さのような、骨格が崩れたような音のような、どうにもならない窒息する重量だから。

たまにくる映画監督からのメールは、「頭が不調です」だって。私は、よく妄想のロケハンをしています。ここで、こんな映像と台詞をと無駄に考えていますよ。メロンパンは、けっこうカロリー高いって知ってましたか。クリームがないぶんマシかと思っていたら、とんでもない。だまされてましたよ。「脳は大食い」って、子どもの頃読んだ科学漫画にありました。だから、カロリーをとらないと、脳に食われてしまうのかな。

木立ち109号